仙台でがんばる「フリースクール コルネット」代表の新川です。

前号で書きましたとおり、私は以前、公立の高校で国語の教員をしていました。なぜ、国語の教員をしていたのかと申しますと、国語によって人生を救われたからです。

私はもともと、国語が苦手でした。割と得意だったのは数学です。国語とは正反対の科目です(笑)。高校時代、国語の理解力が低く、テストの点数は振るいませんでした。しかし、現代文(当時は、現代国語と言っていましたが)の先生が教えてくださる内容は哲学的で、「何か深い内容が秘められているなあ」と、理解できないながらも感じていました。(今にして思えば、いわゆる「記号論」をふまえたものと思います。)国語ができるようになると自分も深い内容が理解でき、世の中の真実がわかるのかもしれないと思いました。(青春期の青臭い考えだと笑わないでください。当時は真剣にそう思っていました。)

そんな私たちに現代文の先生は、添削指導をしてくださいました。5、6ページくらいのエッセイが多数載っている本を利用しての要約指導でした。国語の苦手な私は、結構苦しみましたが、少しずつ正解率が上がってくるようになり、テストの成績も上がってきました。

そのうち、現代国語の授業が以前よりも理解できるようになってきました。すると、得意だった数学よりも国語の方が面白そうだという思いが強くなってきました。「デジタル(数学)の世界がわかっても、アナログ(国語)の世界がわからなければ、人として偏っているよなあ」とも思いました。そして結局、得意だった数学の道よりも国語の道に進もうと決心し、文学部へと進みました。

実は、高校時代、大学時代と軽いうつ状態になることが多かったのですが、加藤諦三先生や國分康孝先生の心理学的な啓蒙書を読みあさりました。そうすることで自分を救おうともがいていたのでした。その際に発揮した読解力は高校時代に恩師に鍛えていただいたものです。大学を卒業してからもそういう読書傾向は続き、基本的には自分の悩みや苦しみを解消してくれるような本を読むことが多かったです。

そういった本をたくさん読めたのは、高校の時に身につけた国語の力のおかげです。国語が私の人生を救ってくれたのです。読解力があれば自分を救うことができる、私はそう思っています。

そこで、「フリースクール コルネット」では、昼間にフリースクールを開いたのち、夜は火・金限定で現代文の塾を実施します。フリースクールと塾では相容れないとお考えの方もいらっしゃるかもしれませんが、私の中ではどちらも大事な人生の要素の一つです。

ちょっとこじつけみたいに思うかもしれませんが、フリースクールが人生を自由に生きることを模索するものだとしたら、現代文は頭と心の自由を作り出すものなのかもしれません。

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