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春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは少しあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる。


言わずと知れた、『枕草子』の冒頭です。昨日は『方丈記』、そして、今日は『枕草子』がテーマです。


この冒頭の文章は有名ですね。中学や高校で暗唱させられた方も多いでしょう。しかし、よく考えると、いまいち内容がわからないのです。一番の謎は「やうやうしろくなりゆく山ぎは少しあかりて」の部分。とりあえず訳すと、「だんだん白くなっていく山際(=山の上の空)が少し明るくなって」となります。しかし、普通に考えれば、「だんだん白くなって」と「少し明るくなって」は、同じことです。「だんだん白くなっていく山際が少し明るくなるって、どういうことよ」とツッコミを入れたくなるのです。


私と同じ疑問を持つ方が多いのか、「やうやうしろくなりゆく」で「。」を打つ解釈があります。つまり、「やうやうしろくなりゆく。山ぎは少しあかりて」です。ご存じの方も多いと思いますが、『枕草子』が書かれた平安時代には、句読点(「。」「、」)は存在しません。そもそも古文において、句読点は後の世の人がつけたものです。原文は句読点がなく、続けて書いてあります。ですから、句読点をどこにつけるのかも、解釈のうちなのです。


実際に「やうやうしろくなりゆく」で「。」を打つと、「山ぎは少しあかりて、むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる」の部分は、「山際が少し明るくなって、(そこに)紫がかった雲が細くたなびいている様子がいいね」という解釈になり、スッキリします。しかし、今度は「やうやうしろくなりゆく」の部分に違和感があります。「春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく。」を訳すと、「春はあけぼのがいいね。だんだん白くなっていく」となり、「だんだん白くなっていく」の部分に、「なにが白くなるんだよ」「だからどうしたんだよ」というツッコミを入れたくなるのです。


この疑問を自分なりに解決したのは、30代前半で高校2年生相手に授業したときです。授業の予習の段階で、考えているうちに、ひらめきました。


「やうやうしろくなりゆく。」と「。」を打つと、「なりゆく」が終止形だと考えてしまうけれど、「なりゆく」を連体形だと考えて、下に「さま」という名詞が省略されているのだとしたらどうだろう。ちょうど「ほそくたなびきたる」の部分も、「たる」という連体形の下に「さま」を補って解釈する。それと同じように考えればいいのではないだろうか。そうすると、「やうやうしろくなりゆく」の部分は「だんだん(外が)白くなっていく様子がいいね」という解釈が成り立つ。


やや専門的になって申し訳ありませんでしたが、結局、冒頭部分を私の解釈で訳すと、次のようになります。


春はあけぼのがいいね。だんだん(外が)白くなっていく様子がいいね。山際が少し明るくなって、(そこに)紫がかった雲が細くたなびいている様子(なんか)もいいね。


私はこの解釈でスッキリしました。皆さんは、どのように考えるでしょうか。


この解釈が浮かんだとき、念のため手近にあった専門書や参考書に当たったのですが、私と同じ解釈のものは、残念ながらありませんでした。しかし、「納得のいかないものは、授業しない」という私自身の原則に基づき、私は思いきって自分の解釈で授業しました。もちろん、私独自の解釈であることは、生徒さんに断ったうえですが。


生徒さんがどのように受け取ったのかまではわかりませんが、私自身は自分の授業に納得がいきました。前回のブログでも書きましたが、私の知る限りにおいては、国語の教員といえども、自分の解釈を棚にあげて、模範解答のとおりにする方は多いのです。でも、それは、真に学問的な態度と言えるでしょうか。


意味不明の妥協が嫌いな私が、後に高校の教員をやめることになったのも、必然なのかもしれません。


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