フリースクール コルネット、仙台でがんばっております。

いきなり強めのタイトルで申し訳ありませんが、世の中のさまざまなコンクールの審査、私は本質的に不平等だと思っております(笑)。だから、コンクールや審査をうらむ、というのではありません。最初からそう思っておいた方が、現状認識として妥当であり、精神衛生上いいのではないか、というお話です。



かつて私は、読書感想文の審査員を何度か経験しました。ですが、とにかく、審査員によって点数が異なります。A審査員が高得点を出した作品にB審査員は低得点をつける、こんなのは当たり前です。もちろん、A審査員とB審査員の仲が悪いというわけではありません(笑)


ある年の審査で、どうも私と点数のつけ方が「真逆」になるC審査員がいました。不思議だなと思って、私とその審査員の点数の基準はどう違うのだろうと考えてみました。そして、私なりに出した結論は、


私=国語の教員なので、文章の密度、文章の迫力、論理性、考察の深さに重きを置いて判断する
C=倫理・道徳的に正しい考えを述べているかどうかに重きを置いて判断する


ということでした。読書感想文の審査員には、私のような国語の教員もいれば、国語の教員でない人もいる。国語の教員は通常「文章力」を見るのですが、国語の教員でない人は、言っている内容が道徳的に正しいか正しくないかに重点を置くという傾向があったように思います。(古い話なので、今はわかりませんが。)


それなら、読書感想文コンクールの審査というものが、そんなに平等であるはずがありません。



私は「合唱団パリンカ」という男声合唱団に所属しているのですが、合唱コンクールでも似たような経験があります。ある年のアンサンブルコンテストの審査結果です。正々堂々と公表されています。


審査員Xが2位をつけた団体Aに対して、審査員Yは7位、審査員Zは5位と、やや辛口でした。逆に、審査員Zが2位をつけた団体Bに対しては、審査員Xが8位、審査員Yが10位と、かなり辛口でした。


合唱コンクールの審査も、絶対的なものではありません。審査員によって大きく変わります。



概して、「審査」というものは、本質的に不平等です。どこかに客観的な絶対的な審査というものがある、と考えるのが違うと思います。審査するのは神ではなく人間です。絶対であるはずがありません。


審査は絶対ではないという前提を持ったうえで少しでもよいものを作ろうとする、それがあらゆるコンクールに臨む健全な姿勢だと思います。


読書感想文や合唱コンクールほどではないにせよ、高校や大学の入試にも同じような側面があります。推薦入試はAO入試で課される小論文や面接は、採点者によって評価が異なる場合があるからです。


採点者も神ではありません。もし、どうしてもその入試を突破したいのであれば、採点者の差異を吹き飛ばすような圧倒的な実力をつけるしかありません。でも、そこまでこだわるより、「採点者も神ではないんだ」と思っておいた方が、気持ちは楽だと思います。そのうえで、少しでも実力をつけていけばいいのです。

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